日本神話は弁証法(?)
2025年 04月 14日
自宅で湯船に浸かってぼーっとしていたり、
一人で外に出て特に考えごとをするでもなく歩いたりしていると、
ずっと昔に考えたことや本で読んだことが
ふいに頭に浮かんでくることがあります。
たいていはどうということもないようなことで
「今さらなんでまたそんなつまらぬことを……」で終わるのですが、
時には面白く感じるようなこともあります。
一昨日の午前中、畑仕事をして帰ってきて、
買い物に出るまでの間風呂に入り、
十数分間湯船に浸かっていたのですが、
「日本の神は祈られる神であるとともに祈る神でもある」
という言葉が何の脈絡もなく頭に浮かびました。
その心は、日本には究極の神がいない、全能の神がいない、ということ。
風呂から上がったあと自分の記憶に対する疑いがわいてきて、
その言葉の出典であるはずの丸山真男の『日本の思想』を書棚から引っぱり出しました。
そして、丸山のその記述のネタ本であろう和辻哲郎の『日本倫理思想史』も。
どちらも開くのは四十数年ぶり。
和辻哲郎が分析しているように、日本神話においては祭られる神は
同時に祭る神であるという性格をどこまで遡っても具えており、
祭祀の究極の対象は漂々とした時空の彼方に見失われる。
(丸山真男『日本の思想』岩波新書、1961年、20頁)
神代史において最も活躍している人格的な神々は、後に一定の神社に
おいて祀られる神であるにかかわらず、 不定の神に対する媒介者、
すなわち神命の通路、としての性格を持っている。それらは祀られる
とともにまた自ら祀る神なのである。 (中略)祀られる神が自ら祀る
神であるということを最も顕著に示しているのは、神代史の主神天照
大御神の物語である。(中略)この大神は天上の国の主宰者として自ら
神を祀っているのであって、他からの祭祀を受けているのではない。
(和辻哲郎『日本倫理思想史 上巻』岩波書店、1979年、59頁。傍点を太字にかえました)
私の記憶、間違っていました。
「祈る」じゃなくて「祀る」だった。
でもまあ、当たらずとも遠からず、ということで……。
と自分で自分をフォローして、納得。
いずれにせよ、確かに少なくとも『古事記』において、
天照大御神(あまてらすおおみかみ)は<うけい>をやります。
うけい競べの相手は須佐能男命(すさのおのみこと)。
絶対神ならばそんな占いの類いなどするはずがない。
そんなことをする必要などありはしまい。
(石川淳『新釈古事記』ちくま文庫、1991年、30頁など参照)
究極の神がいないって、まるで弁証法のよう。
とそこで、思考がさらに彷徨い始めます。
待てよ、三位一体なんて言ってるけど、
三つのペルソナの一つであるはずのイエス・キリストは
やはりその一つである父なる神に祈るではないか。
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という
意味である。
(『聖書協会共同訳 新約聖書』マタイによる福音書 27章 46節)
これを「祈る」だと記憶していたのは、これまた私の記憶違い。
でもまあ、これも当たらずとも遠からず、でしょう……。
それにしても、可哀想なイエス様。
キリスト教徒でもないくせに、イエスの神に対するその言葉をあらためて目にして、
私はなんともやるせない気持ちになりました。
ということで、本日は思考を彷徨わせた挙げ句、
やるせない気持ちに行き着いてしまいました……。
by chronoir2023
| 2025-04-14 22:17
| 読書
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