今なら分る「私は……と読みたい」
2024年 10月 19日
三日前ここに、ある政治家が『論語』中の文言を誤用したことに触れました。
その人はその誤用を人前で公開してしまったので、恥をかいてしまいました。
でも、その文言であれ何であれ、ある文言を自分流に理解して
そしてそれを自分の教訓にする分には何の問題もない。
私はそう思います。
もしも「過ぎたるは及ばざるがごとし」という文言を思い出すことで
「過ぎたことは仕方がない、その失敗を生かして今後をもっとまともに生きよう」と
自分を励ますことができるなら、それは悪いことではない。
それどころか、一つの文言がその人にとって力をもったことになります。
『論語』は、大昔の外国の短い言葉の寄せ集めであって
専門家とされる人の間で解釈が分かれる箇所が少なくない。
「過猶不及」を上記の政治家のように解釈する専門家はいなそうですが、
自分の勝手な解釈で私かに自分の教訓にするのはそれこそ各自の勝手。
教訓が教訓である限り、その性質上、そうなると思います。
何十年も前、大学生の頃、中国古典選の文庫版の『論語』を読んでいて、
吉川幸次郎さんが「私は……と読みたい」という言い方を結構するので、
戸惑いました。
いや、正直に言えば、反感を持ちました。
何様? 読みたいとか読みたくないとかの問題なの?
専門家なんだからどの解釈が好きかではなくて、
専門家としてどちらが妥当なのかを語ってよ、と思ったものです。
でも今は違います。
吉川さんはその方が意義深いと思ったのね、なるほど、
それはそれでいいんじゃない、と心静かに思います。
吉川さんが「私は……と読みたい」と書いている例を一つだけあげます。
子曰、不患人之不己知、患不知人也、
子(し)曰わく、人の己(おの)れを知らざるを患(うれ)えず、
人を知らざるを患(うりょ)うる也(なり)。
普通のテキストは、右の通りであり、また右のように訓読されて
いるが、私は、(中略)不患人之不己知、患不知也と、下の人の字のない
テキスト (中略) をよしとしたい。 そうして人の己れを知らざるを
患えず、知られざるを患うるなり、つまり、自分が人から認められ
ない、というのは、自分の悩みではない。 認められるような点が
ない、ということこそ、悩みである、と読みたい。
(『中国古典線3 論語(上)』吉川幸次郎、朝日新聞社、1978年、46頁)
念のため、別の『論語』本で「普通のテキスト」による訳を引きますと――
人が自分を知ってくれないことを気にかけないで、
人を知らないことを気にかけることだ。
(『論語』金谷治訳注、岩波文庫、1963年、26頁)
吉川さんが好む方をあらためて示すと――
自分が人から認められない、というのは、自分の悩みではない。
認められるような点がない、ということこそ、悩みである。
実のところこれは、私の胸には響きません。
私にとっては、教えてもらうまでもないことを言っているだけ。
一方、「普通のテキスト」の方は胸に響きます。
私流に言い換えれば、こうです。
自分のことを人が認めてくれないとか分ってくれないとか言うけど、
それを言うお前は、人のことを認めたり分ったりしてるの?
私にとってこれは、私を我に返らせてくる言葉のひとつです。
確実な答えが出るかどうかはともかく、
孔子が発したことになっている文言が
本来どういう意味なのかを探るのは大事なことです。
しかし、それとは別に、自分がその文言をどう受け止めるか、
それをきっかけにして何を考えるのか、何をするのかしないのか、
の大事さは、それ以上だと思います。
何も『論語』に限らないし、古典に限らない。書物にも限らない。
路上でたまたま耳にしたひと言が人を我に返らせることもあります。
そのひと言は、発言者の意図しない意味に受け取れられているかもしれませんが、
その人の責任にしない限りは、どうでもいいこと。
「過猶不及」の誤読によって自分独りのための教訓を得ることを、
別段悪くないと思う所以です。
大人のひとりとして、誤読であることは知っておくべきだし、
その誤読をもとにヘンな発言はしないよう気をつけるべきではありますが。
とても面白い視点ですね。
「誤読」であるかどうかより、古人の(とは限らないけれど)言葉から、なにかを学び教訓とする、その姿勢を良しとするということでしょうか。
「誤読」であるかどうかより、古人の(とは限らないけれど)言葉から、なにかを学び教訓とする、その姿勢を良しとするということでしょうか。
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by chronoir2023
| 2024-10-19 20:43
| 読書
|
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