雨の首都高と非人情音楽


今日はずっと雨。
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午前中どうしても必要があって、雨の中最寄り駅まで15分歩き、
電車に乗って二駅めで降り、用を済まして帰ってきました。
車内から灰白色の空が高層集合住宅群に雨を落とす様子を目にしたとき、
ふと何十年も前のことが思い出されました。

私が高校二年の時、当時国文科の大学生だった姉が、
古本屋で「夏目漱石作品集」全十巻(昭和出版社、1973年)を買ってきました。

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で、買ったはいいが、姉はそれをずっとほったらかしにしていました。
何がきっかけだったか、たまたま手に取って『坊ちゃん』を読んだら、実に面白かった。

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中学一年の時に新潮文庫の『吾輩は猫である』を途中で投げ出して以来、
それ以前と同様に私の漱石への興味はゼロでしたが、
『坊ちゃん』読了でエンジンがかかってしまい、
一か月もしないうちに十巻全てを読み終えました。

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『こころ』だけは好きになれませんでしたが、それ以外はどれも面白かった。
すっかり漱石好きになりました。
ただ、『草枕』の「非人情」がぴんとこなかった。
「非人情」って何? です。
とはいえ、それについて深く考えるということはしませんでした。

大学を卒業して就職した会社で最初の三年ほどは営業部にいて、
営業車で外回りをする毎日でした。
三年目の一年間は自分が住んでいる市が担当地区だったので、
自宅から歩いて駐車場に行って車で仕事に出かけ、
仕事を終えたら駐車場経由で自宅に帰ることを繰り返します。

ただし、一週間か二週間に一度は会社に車で行き、
報告や精算をするとともに、車に商品やパンフレットの類いを積み込んで、
持ち帰ってこなければなりません。
行きも帰りも首都高を使います。

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その日の夜は今日のようにかなりの雨でした。
後部座席に置いたラジカセでブルックナーの第七番第一楽章を流しながら
私は首都高を走っていました。
渋滞もなく、ワイパーで視界を確保しながら真っ直ぐや緩いカーブをすいすいと進みます。

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首都高速は当然ながら堅牢なコンクリートでできています。
無機的で殺風景で、何の味気もない建造物です。
高架道路の脇には、やはり味も素っ気もないビルが続きます……。

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不意にそれは起こりました。
道路と道路を挟む無機的この上ないあれこれが全く別なもののように私に迫ってきたのです。
それとともに、それと一体化したように、
ブルックナーの、芯らしい芯がなく、曲ごと全部が芯になってしまったような、
あの奇妙なほどに拡散的な音楽が、巨大な構築物として、
これまでになく胸にせまってきました。

現物を見たことはないし、現代のビルに比べたらその高さなどタカが知れているはずなのですが、
ビル群がストーンヘンジの如き、古代の巨石建造物群のように思われてきて、
まるで、古代宗教の密議の中に入り込んだような錯覚に陥りました。

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あの不思議な感じは、いまだにあの時だけのものです。

そのあと、思いました。
ああ、これが「非人情」だ、と。
ブルックナーの音楽は「非人情」であり、
「非人情」とはこういうことだったのかと。

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非情でも不人情でも薄情でもない。
つまり、人情がないでも、人情が足りないでも、人情を解さないでも、
人情に目をつぶっているでも、人情に流されないでもなく、
人情でない、のです。

心の温かみや冷たさとは関係がない。
良くも悪くもそういう価値観とは次元が違う。

なるほどそういうことか、とひとりで納得しました。

それにしても、あのとき事故に至らなくてよかった。
一種の酩酊状態のようなものでしたから。


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by chronoir2023 | 2024-06-28 20:52 | 不思議な出来事 | Comments(0)

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