弁証法、それがどうした?


物事の考えを表す言葉には、
固定的な言葉と運動的な言葉があると私は考えます。

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それどころか、同一の言葉が、
固定的な言葉と運動的な言葉の両方になりえます。
そして、言葉が運動的でなくなると、そこには思考はなく、
せいぜい思考の抜殻があるだけ。

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例えば、弁証法というやつ。

よく、正⇒反⇒合などと図式的に説かれます。
これによって何が得られるの……?
私には実につまらないこととしか思えません。

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例えば『デジタル大辞泉』で「弁証法」は、こう説明されています。

 ヘーゲルは、思考と存在を貫く運動・発展の論理ととらえたが、
 その本質は思考(概念)の自己展開にある。概念が自己内に含む
 矛盾を止揚して高次の段階へ至るという論理構造は、一般には正・
 反・合、定立・反定立・総合という三段階で説明されている。
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「正・反・合」と言ってしまうと、「合」で終わってしまうようにとれます。
でも「合」は新たな「正」になり、「反」によって新た「合」に至る。
そのあと同様に続き、際限がないことを言わないと、
非弁証法的になってしまうのではないでしょうか。

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運動は永遠に続く。
止まること、固定することはない。
止まり、固まってしまうなら、何が弁証法だ!
いや、弁証法も何も、そこには思考がない。

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例えば、政治体制の最終形が共産制などということはありない。
いや、かりに共産制なのだとしても、「正しい共産制」は現実的にはありない。
絶えず弁証法によって鍛えていくほか手はない。

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そもそも、求めるべきは「正しい共産制」ではなく、
「よりよい政治体制」でしょう。

最終形が予め一つの形で示されているというそのことと思考は両立しうるでしょうか。
今は昔、フランシス・フクヤマは「リベラル民主主義」を政治体制の終点と見なし、
「歴史の終り」という言い方をしました。
しかし、人類が絶滅するまでは、「歴史の終り」などあるはずがない。
実際終わっていません。

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「リベラル民主主義」のあとには、
ネオリベラリズムによるいびつな政治体制が先進国といわれてきた国々を席巻し、
しかもそれは、悪しき共産制に近づいているようにさえ見えます。

弁証法は、プラトンあるいはプラトンが描くソクラテスに由来します。
プラトンの初期の著作、例えば『エウテュプロン』を読むと、
弁証法=思考の何たるかが見えてきます。

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残念なことに、プラトンの後期の著作には、『エウテュプロン』流の思考を見出すことができません、
少なくとも私には。残念なことです。

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by chronoir2023 | 2024-02-12 20:43 | 読書 | Comments(0)

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