『すばらしい新世界』その2
2024年 01月 09日
今日は、1月5日の続きを書きます。
オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』は、
ディストピア小説としてオーウェルの『1984年』と並び称せられます。
(『すばらしい新世界』大森望訳、ハヤカワepi文庫、2017年)
オーウェルの『1984年』が描く世界は、ディストピアと断言できます。
ビッグブラザーが「真理」を管理する、真っ暗な全体主義社会です。
そんな世界に生きるくらいなら、死んだ方がましと思われるような世界です。
一方、『すばらしい新世界』はどうか。
その描く世界をディストピアと断言できるか。
換言すれば、ユートピアでないと断言できるか、ということになります。
前にここに書いたことに関わってきますが、
幸福な羊として生きることの是非の問題になってきます。
どんな世界か。
訳者の大森さんの解説を参考にして箇条書きにするとこんな感じです。
・フリーセックスとソーマと呼ばれる合法ドラッグが公的に推奨されている。
・重くて面倒くさい人間関係は一切ない。
・子どもは人工授精で瓶から生まれるので、親子関係は存在しない。
・結婚制度がないので夫婦関係は存在せず、家族という概念もない。
・特定の恋人との長期の関係は不適切とみなされ、
複数の異性と気ままに交際することが推奨されている。
・娯楽産業が繁栄し、シリアスな文学や芸術は排除され、哲学や宗教は存在しない。
・技術の進歩により病気も老化もなく、皆が60歳で安楽死する。
・出生前から各人の社会階層が五つ(アルファ・ベータ・ガンマ・デルタ・イプシロン)に
分けられ、様々な条件付けと睡眠学習により、
各人は自分のありように疑問も不満を感じずに自分の役割を果たし、生活を楽しむ。
・少子化も高齢化も、戦争も暴力も、不況も金融危機も、
自殺も食糧問題も教育問題もない。
大森さんが言うように、それは「だれもがリア充な社会」。
設定されている時代は、西暦でいうと2540年です。
2049年に始まった大戦争と世界的な経済破綻を経験した人類は、
真理などは捨て、ただ幸福の実現のみめざし、
そして、それに成功した。
「だれもがリア充な社会」と書きましたが、それは不正確で、
その社会に不満を持つ者もごく少数ながらいます。
また、野人保護区があって、そこには五階級に属さない非文明人が暮らしています。
かれらは化外の民のような存在です。
この世界に疑問を持つ数少ない人物バーナード・マルクスととヘルムホルツ・ワトスン、
そして、野人保護区からバーナードが連れてきたジョン(実はバーナードの上司である所長の息子)に、
世界統制官ムスタファ・モンドが語る言葉を少しだけ引いてみます。
なお、世界統制官は「だれもがリア充な社会」を管理維持する人たちであり、
10人いて、ムスタファ・モンドはその一人です。
ドストエフスキーの『カラマアゾフの兄弟』の「大審問官」を彷彿させる人物です。
「いま、世界は安定しいる。だれもがしあわせだ。ほしいものは手に
入り、手に入らないものはほしがらない。だれもが恵まれている。
みんな安全で、病気にかからず、死を恐れない。さいわいなことに、
激しい感情も、老いも知らない。母親や父親などという病に悩まさ
れることもない。激しい感情の対象となる妻も子も恋人もいない。
きちんと条件づけされているから、 適切な行動以外の行動をとる
ことは、事実上、不可能だ。もし何か問題が生じれば、ソーマがある」
(305-306頁)
「社会という車輪を安定的にまわしつづけるのは、万人の幸福だ。
真実や美に、そのその力はない。そしてもちろん、大衆が権力を
握ったとき、問題になるのは真実と美ではなく、幸福だった。それ
でもはやり、当時は無制限の科学研究が許されていた。人々は、
依然として、真実と美を、それが最高善であるかのように語りつ
づけていた――九年戦争のときまで。ところが、九年戦争を境に、
空気が一変した。まわりじゅうで炭疽菌爆弾が爆発しているとき、
真実や美や知識になんの意味がある? 九年戦争後、科学研究は
初めて制限されるようになった。このときばかりは、自分の欲望
を制限されることにさえ納得する空気があったからね。平穏な生
活はなにものにもかえがたい。以来ずっと、われわれは制限を続
けてきた。もちろん、真実のためには、あまりいいことではない。
しかし、幸福のためのは非常に好都合だった」(316-317頁)
どうでしょう。
今現在の私たちのこの世界に生きる人たちの何割かは、
このような社会を望んでいないでしょうか。
何割かどころか、大半であるかも知れません。
それこそ、ゆりかごから墓場まで、「しあわせに」暮らせるのです。
階級が上の方ならいいが、
たとえば最低階級のイプシロンになったらたまったもんじゃない、
と言う人がいるかも知れませんが、
イプシロンもまた、不満はないのです。
自分の生活に満足できるよう、出生の前後に条件づけられているのですから。
外から全体を見れば、とんでもない社会ですが、
そこに生きる各々の存在、しかもその大半にとっては、
「リア充」である社会ということがあり得るように思えてなりません。
くり返しになりますが、これをディストピアと断言できるでしょうか。
ユートピアでないと断言できるでしょうか。
モヤモヤが消えません……。
生が彩りを失い、私の雑駁な知性と貧素な感情は
つかみ所を失ってどこかに浮遊していってしまいそうです。
それにしても、このような小説が1932年に刊行されていたとは。
驚きです。
by chronoir2023
| 2024-01-09 20:50
| 読書
|
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