『世界はなぜ地獄になるのか』その3
2024年 01月 07日
二日続けて「モヤモヤ」なる言葉を含むことをたまたま書いたのですが、
そのあと、何かが頭のすみにひかかっているのです。
しかし、その何かが何なのか分かりません。
「何か」という所以です。
それこそもうモヤモヤ……。
モヤモヤがモヤモヤを生じさせてモヤモヤ。
もう処置なしです。
ところが、今日朝風呂に入っていたら、突如思い当たりました。
昨年の10月に橘玲さんの『世界はなぜ地獄になるのか』を読み、
その本の内容をネタにしてここに2回書いたのですが(※)、
その本を読み始めてすぐに、半世紀以上前のあることを思い出したのです。
思い出したそれはまさに「モヤモヤ」でした。
今日そのことに行き着いたのです。
せっかく思い出したので、それ含めて、
「『世界はなぜ地獄になるのか』その3」を書きたくなりました。
「モヤモヤ」に関しては遠回りの書き方になりますが、
ご海容ください。
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この本のはじめの方で橘さんはこう言います。
私は”リベラル”を「自分らしく生きたい」という価値観と定義している。
そんなのは当たり前だと思うかもしれないが、人類史の大半において
「自由に生きる」ことなど想像すらできず、生まれたときに身分や職業、
結婚相手までが決まっているのがふつうだった。
(橘玲『世界はなぜ地獄になるのか』小学館新書、2023年8月、6頁)
「社会正義(ソーシャルジャスティス)」をあえてひと言で表わすなら、
「誰もが自分らしく生きられる世界をつくろう」という運動のことだ。
そしてこれは、疑問の余地なくよいことである、誰だって自分らしく
生きることを許されない社会(たとえば北朝鮮)で暮らしたいとは思わ
ないだろう。(同上7-8頁)
これを読んだとき、「自分らしく」という言葉に私はひっかかりを覚え、
正直言いますと、多少の不快感に襲われました。
自分らしく?
自分らしくって、何?
筒井康隆原作、深田恭子主演の2005年のTVドラマ『富豪刑事』第5話の最後で
深田恭子が首を傾げて「OK牧場って、何?」と呟くように、
私はそう心の中で呟いてしまいました。
(因みに、ドラマ『富豪刑事』を私がはじめて観たのは数年前なのですが、私、このドラマ、好きです。
それまで深田恭子は名前しか知らなかったのですが、このドラマに関する限り、私は深キョンも好きです。)
いろいろ考えていたら、半世紀も前のことを思い出しました。
たぶんその時以来はじめてです。
中学生の頃、数学のテストを返され、答え合せが行われたのですが、
私の答案の中に間違っているのに○がしてある箇所があるのを発見し、
教師にそれを言いに行ったら、教師に
「○○(私の名字)らしくないな」と言われたのです。
「らしくない」中身が<自分の点数が下がることをわざわざ申告すること>をさすのか、
<こんな問題に誤答したこと>をさすのか分からず、モヤモヤしました。
ずっと忘れていたとはいえ、思い出せばはっきりと覚えているのですから、
相当モヤモヤしたのでしょう。
そう、「自分」とセットになっていない「らしく」「らしい」ならわかるのです。
不自然さも感じませんし、不快感が生じることもありません。
例えば、いつも強気な人が妙にしおらしい言い方を私にしてきたら、
「どうしたの、らしくないな、何か魂胆があるの?」ぐらいのことを
私も言うことがあると思います。
私が他人に普段したことがないような無礼な対応をしたら、それを見た妻に
「どうしたの、らしくないね、あの人と何かあったの?」
などと言われそうです。
他にもいくつも例を思い浮かべることができます。
こんなことにまで気配りしてくれるなんて、君らしいね、ありがとう。
そんなポカをやるなんて、ほんと、あいつらしいな。
ああ、しくじった! らしくないことなんかするんじゃなかった。
こうやって例をあげていって気づくのは、
「自分」とセットになっていない「らしく」「らしい」は、
よい意味でも、悪い意味でも使うということ。
でも、「自分らしく」はひたすらよい意味らしい。
「自分らしさ」は肯定されるべき対象らしい。
となれば、「自分」もまた肯定されるべき対象ということになります。
少なくとも、上記の橘さんの文脈ではそうです。
私は誰であれ、人は何かになりつつある何かだと思っています。
人は短期に変わり長期に変わります。
よく変わることもあれば悪く変わることもあります。
努力によって変わることもあれば、自堕落によって変わることも、
自然に変わることもあります。
その人らしさはその過程や結果において自他に知られるものでしょう。
さらに言えば、よく変わったのか悪く変わったのかを判断するのは
それぞれのときに、それぞれの人がすることであり、
ときにより人により判断の内容は異なるでしょう。
やはり私は、「自分」と「らしさ」「らしい」をつなげることに
何かしっくりこないものを感じるのです。
なぜ、自由に生きたい(上記の橘さんの文章中に「自由に生きる」があります)、
自分の生きたいように生きたい、自分の好きなように生きたい、
自分の生き方は自分で決めたい、などではいけないのでしょうか。
たぶん、「自分らしく生きたい」に比べて
それらはベタな印象を与えるからでしょう。
「自分らしく生きたい」の方が、中身の幅が大きく、より曖昧で、
スピリチュアルっぽい感じさえするからではないでしょうか。
要するに、今風に響く、ということか。
しかし、どうなのでしょう。
自分、自分、自分、
その言葉の頻用によって、かえって自我はあやふやになっていないでしょうか。
いや、あやふやになっているからこそ、その言葉が頻用されるのかも知れません。
昨今は、「今だけ、金だけ、自分だけ」という言葉をときどき見聞きします。
これは悪い意味で「自分」が使われています。
いやらしい言い方をすれば、「今だけ、金だけ、自分だけ」で生きることが
その人の自分らしさならば、自分らしくそのように生きることは
奨励されるべきことになります。
自分らしく生きることを至上価値のごとく見なすならば、当然そうなりますし、
それでいいことになります。
なお、橘さんのこの本は、「自分らしく生きること」を
専ら肯定的に扱っているわけではありません。
橘さんはそんなことをするには賢すぎます。
よいことであるはずの「自分らしく生きる」という価値観が
この世界を「地獄」にしてしまうのはなぜなのか、
それこそがこの本のテーマなのです。
書名がそのことを正しく表しています。
※
by chronoir2023
| 2024-01-07 22:05
| 読書
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