『言葉の常備薬』その2 こちらでもモヤモヤが……。
2024年 01月 06日
今日は、三日前の続きを書きます。
文箱さんのブログ「書架だより」で昨年11月に紹介されていた本、
『言葉の常備薬』(呉智英、双葉社、2004年)を同月に読みました。
興味深いネタ満載の本で、大変面白く読んだのですが、
その中でも私が特に興味を引かれたネタが二つあり、
三日前にここに書いたのは、そのうちの一つについてでした。
今日は、残りのもう一つについて書きます。
「秋の美、牝の美」というタイトルのもとに書かれていることです。
それは、八木重吉という詩人の詩について書かれたもの。
私は詩に疎く、この詩人を知りませんでした。
学生時代からこの詩人に興味を持っていた呉さんは、
1982年10月の朝日新聞の宗教欄で、
それまで知らなかった詩を目にします。
『素朴な琴』
この明るさの中へ
ひとつの素朴な琴をおけば
牝(めす)の美しさに堪(た)へかねて
琴はしづかに鳴りいだすだらう。
太字は私が強調のためにそうしたもの。
また、( )内は本ではルビになっています。
呉さんは、この詩人を「純朴な詩ばかり書いている」人だと思っていたので、
「こみ上げてくる激情が生々しく脈打つような」この詩に驚き、
「たった四行で、これだけの表現ができるのも、八木重吉ならではだろう」
と思います。
ところが、一週間後に訂正記事が出ます。
「牝(めす」とあったのは誤植で、正しくは「秋」だったのです。
「秋の美しさに堪へかねて」なら、 誰がどう見ても八木重吉
じゃないか。 事実そうなのだから、それでいいんだけれど、
私は、八木重吉とは思えない意外な官能美に驚嘆していたのだ。
私の驚嘆は、どうしてくれるんだよ。(190頁)
これだけで十分に面白い話ですが、いろいろと考えさせられる話でもあります。
作者と作品の関係をどう見るか、
作品を専ら作者に所属するものと見るかどうかという問題です。
著作権絡みのことは横に置きます。
呉さんに限らず、訂正前の詩を見て心を動かされた人にとって、
心を動かされたというそのことは、事実であり、真実であるはずです。
訂正後の本来の詩がよい詩だったとしても、驚嘆とは縁遠いでしょう。
だとすれば、訂正後の詩はそれとして、訂正前の詩はどうなるのでしょうか。
これが詩として文章として意味をなさない誤植だったら、話は別だったでしょう。
「牝」でなく、例えば「利」だったり「托」だったりしたら、詩にならず、
人の心を動かすことなどないし、刷る前に明らかな誤植として訂正されていた可能性が高い。
「牝」であったからこそ、一つの詩に見え、呉さんの心を動かしたわけです。
誰かが意図的にその語を使ったわけではない。
しかし、それはもとの詩とは違う詩を成立させ、人の心を動かした。
実に面白いことだと思います。
さて、「牝」の方が、強烈な印象を与えるとして、
個人がその形でその詩を味わうことに何か問題があるでしょうか。
あるいは、それが誤植だと知ったあとでは、強烈な印象は消えてしまうのでしょうか。
心を動かされた事実は残っても、それは真実であることをやめてしまうのでしょうか。
これは、AIが作った詩に感動できるか、感動したとしたらどうか、
という問題にも通じます。
ある一人の人間の感情、経験、心根、教養、思考……、
つまり人間性あっての詩ではないか、
と思わないではないのですが、
現にここに詩があって、それに感動を覚えた場合、
誰がそれを作ったか、何がそれを作ったかは、
大した問題ではないようにも思われるのです。
あるいはまた、ある詩の一部を変えることで感動が増すなら、
自分で楽しむ分には変えて構わないのではないか、とも思われてくるのです。
実は、そんなことを言いながら、私の中にはモヤモヤが発生しています。
このモヤモヤを如何せん……。
by chronoir2023
| 2024-01-06 20:00
| 読書
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