『言葉の常備薬』その1


ブログ「書架だより」の文箱さんが11月に紹介されていた本の一つに
『言葉の常備薬』(呉智英、双葉社、2004年)があります。
同月中に図書館で借り、面白く読みました。

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呉智英さんの本は、1980年代から90年代にかけにずいぶん読みました。
みなそれぞれに面白かった記憶があります。
自宅にまだ五、六冊は残っています。

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呉さんは、90年代には「朝まで生テレビ」にもよく出ていたように記憶しています。
当時は愛読していた小林よしのりさんの『ゴーマニズム宣言』にもよく登場していました。

『言葉の常備薬』は2004年の刊行で、読んだことがありませんでした。

この本、読んでみると、文箱さんが取り上げられていたネタを含め、
面白いネタ満載でしたが、私が特に面白いと思ったネタが二つありました。

まず一つ目は、「後期印象派」のこと。

2003年6月4日の朝日新聞朝刊に美術評論家の高階秀爾さんが書いた文章によると、
「後期印象派」は誤訳とのこと。
言われてみれば、当然のことで、呉さんが書いているように、 
postーimpressionism は、印象は(impressionism)の後(post)の意であり、
postwarが「戦後」の意であって、「戦争後期」の意ではないように、
「後期印象派」の意であるはずはなかったのです。

「はずはなかった」と過去形で書いたのは、
ひと頃は美術展に足繁く通い、今でも結構絵を眺めるのが好きなつもりでいて、
セザンヌは別格などと思っている自分が、「後期印象派」という言葉に
何も疑問を感じたことがなかったからです。
正直のところ、ちょっと悔しい。

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高階さんの言葉を「 」で引用しながら、呉さんはこのように書いています。

  後期印象派に属するのは、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌなどだが、
 「これらの画家たちは印象派とは違う別の世界を目指し」「自己の内面
 世界を表出しようと努めた」。そのため、「印象派の後」という意味で
 postーimpressionism と名付けられたが、これが「後期印象派」と誤訳
 されてしまった。(178頁)

neo-impressionism の人たち、スーラやシニャックらを、
原語からも絵からも、「新印象派」と呼ぶことに違和感はありませんが、
事情を知ってしまうと、postーimpressionismとされる人びとを
「後期印象派」と呼ぶことはいかにもおかしく感じられてきます。
にわか知識が私にはもう浸透してしまいました。

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世間一般ではどうなっているのだろうと、JapanKnowlegeで検索すると――

postーimpressionism を<小学館 ランダムハウス英和大辞典>も
<プログレッシブ英和中辞典>も「後期印象派」としています。
<日本国語大辞典>には「後期印象派」が立項され、
「一九世紀末の印象派の画風をいっそう個性的、象徴的に発展させた
セザンヌ、ゴッホ、ゴーガンなどの画家たち。また、その画風。
印象派以後」とあります。

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最後の付け足しのような「印象派以後」、
これは高階さんの所説を思わせますが、
落ち着いて見直すと、「これでいいの?」という疑問が生じます。
「以後」だというなら、今だって「印象派以後」では……。

他方、<日本大百科全書>の「イギリス美術」の文章中に、
「ポスト印象派post-impressionism従来後期印象派と表記されていたもの)(保坂健二朗)
といった文言が見えます。

一部で悪名高いウィキペディアは、
「Post-Impressionism」を「ポスト印象派」として立項、
「後期印象派」なる訳語に問題があることを指摘し、
「ポスト印象派」の他に、「後印象派」という訳語もあることを紹介しています。

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私には「ポスト印象派」が一番ましのように思われます。

この問題、今後も知る人ぞ知るのままになるのか、次第に一般化していくのか、
「後期印象派」で再び塗りつぶされてしまうのか、先行き不明です。

ところで、高階さんの「これらの画家たちは印象派とは違う別の世界を目指し」は
いいとして、「自己の内面世界を表出しようと努めた」はどうなのでしょうか。

私は絵を見るのに、画家の内面世界やその表出には興味がありません。
個展に行って、「これは私の内面世界を表出させた絵です」なんて説明を聞かされようものなら、
気持悪いったらありゃしない、絵から目を背けて歩き、その場を去ります。
私は絵を見たいのであって、画家の内面世界を見たいわけではない。見たくない。

セザンヌのあの美しい絵。
そこにセザンヌの内面世界を表出されていようがいまいが、
それがそれを表出しようとした結果であろうとなかろうと、どうでもいい。
そこにあるのは出来上がった絵だけです。

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ある一人の人が描く以上、そこにはどうしたってその人の個性が表れるでしょう。
画家もプロであるなら、衆目を集めるべく、既存の絵とは大きく違う独自のものを描こうとする、
ということはあるでしょう。
でも、それは各画家の問題であり、楽屋話のようなもの。
絵を見る側の私は、制作の経緯も画家の経歴もどうでもいい。
重要なのは、その絵が私を魅了するかどうかだけ。

魅了されれば、その次に来るのは技法への興味。
さらには、描かれた経緯や、画家の経歴にも興味が行くということはあるかもしれません。
画家の内面世界とやらに興味をもつということもないとは限りません。
でも、それはオマケです。付属事項です。

自己の内面世界を表出しようと努めた?
どうぞ、勝手に努めてください。

長くなりました。
二つ目については近日中に書くことにします。


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by chronoir2023 | 2024-01-03 20:20 | 読書 | Comments(0)

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