『デミアン』小ネタ その2


三日前の続きです。
ヘルマン・ヘッセの『デミアン』のもう一つの小ネタについて書きます。
その1と比べると、小ネタと言うよりも極小ネタなのですが、
私には面白くもあり、悔しくもあったので、書きたくなりました。

そのネタとは、『デミアン』に日本人登場、という話です。
全く記憶になかったのですが、拾い読みをしたら、「日本人」の文字が目に入り、
興味をひかれてしまいました。

『デミアン』小ネタ その2_f0405897_17544320.jpg
















主人公シンクレールとその年上の友デミアンが知り合ってから七、八年後、
二人が最後に会ってから何年か経っています。
大学生になったシンクレールが夜の町を歩いていると、
後ろで二人の男性の声がします。

『デミアン』小ネタ その2_f0405897_17372314.jpg









そのうちの一人の声には聞き覚えがありました。
(以下、太字は私による強調です。)
 
  その声はふしぎに聞きおぼえがあった。知っている声だった――
 私は暗い路地の中のふたりについていった。ひとりは小さくエレガ
 ントな日本人だった。街燈の下で彼の黄色い微笑する顔の光るの
 見えた
  そのとき、もひとりがまた言った。
 「あなたの国の日本でもおなじようなもんでしょう。衆愚人の群れ
 のあとを追わないものは、どこにいってもまれです。ここにもいく
 らかいますが」
  一語一語が喜ばしい驚きをもって私の心にしみこんだ。その話し
 手を私は知っていた。それはデミアンだった。
 (『デミアン』高橋健二訳、新潮文庫、1951年初版、1972年33版改版、1983年55刷、166-167頁) 

そのあと、シンクレールが、デミアンとその母親が住む家を訪れると、
デミアンは「吹きさらしのあずまや」の中に上半身裸で立ち、
つるした砂袋を相手に「拳闘の練習」をしています。

デミアンはこう言います。

 「練習しているのさ。ぼくは小さい日本人に、レスリングの約束
 したんだ。あの男はネコのようにはしっこい。むろんおなじように
 抜けめがない。でもぼくはやっつけられはしないよ。ちょっとばかり
 ぼくは彼に押えられたんだ」(同179頁)

なんだか、こうやって訳文を書き出すと、この文章、結構気になります。
ざっと見では格調高めに見えたし、
昔は、気になる箇所もなく読んだように思うのですが、
「黄色い微笑する顔の光るのが見えた」とか
「もひとり」とか「衆愚人の群れのあとを追わないもの」とか
「喜ばしい驚きをもって」とか「はしっこい」とかは、
×ではないですが、△をつけたくなる文章です。
それにまた、「拳闘の練習」をしているのに、
なぜ「レスリング」なのでしょうか。

『デミアン』小ネタ その2_f0405897_16385665.jpg

















光文社古典新訳文庫の酒寄訳を見てみると――
 
  その声は妙になつかしく、聞き覚えがあった。ぼくは、暗い路地
 を行くそのふたりのあとを追った。 ひとりは日本人だ。 小柄で、
 上品。街灯の下で、笑みを浮かべた黄色い顔が輝いている
  すると、もうひとりがまた口をひらいた。
 「まあ、きみの日本だって変わらないだろうね。群れずにいられる
 人間はどこでも稀少だ。ここにも数人いるけどね
  そのひと言ひと言が心に響き、ぼくはうれしい驚きを覚えた。
 話している人物を知っている。デーミアンだ。
 (『デーミアン』酒寄進一訳、光文社古典新訳文庫、2017年、208頁)

 「練習だよ。あの小柄な日本人勝負する約束をした。あいつ、
 猫のようにすばしっこい。もちろん抜け目もない。でもやられる
 もんか。ちょっとへこましてやろうと思ってね」(同224頁)
 
下線付き太字にした箇所のみ多少の不満を感じますが、
それ以外に気になるところはありません。
私はこの酒寄訳の方が好きです。

なお、上記高橋訳の「レスリングの約束」にあたる箇所は
「勝負する約束」となっています。
実は、上記高橋訳の「拳闘の練習」は、酒寄訳でも「ボクシングの練習」となっており、
「勝負する約束」とすることで、高橋訳に見られた不整合が回避されているわけです。
原文を見ると、「~練習」に当たる部分中には「Boxübungen」、
「~約束」に当たる部分中には「Ringkampf」の語が見えます。
高橋訳は逐語的に訳し、酒寄訳は訳文の整合性重視で処理したということでしょう。
ドイツ語の素養がないので、あくまで当て推量ですが。

それにしても、黄色い微笑する顔の小さくエレガントな日本人、
ボクシングだろうが、レスリングだろうが、
ダミアン、じゃなかった、デミアンなんぞに負けるな!
『デミアン』小ネタ その2_f0405897_17372347.jpg










ところが、このあと、悲しい記述を発見……。

 レスリングにみごとにまけた日本人は去り、〔後略〕
  (髙橋訳、195頁)
    
えーーっ、負けちゃったの?!

『デミアン』小ネタ その2_f0405897_18165538.jpg








悔しい……。
詮なきこととは知りつつ、酒寄訳も見てみると――

 拳闘勝負でデーミアンに完敗した日本人は去り、〔後略〕
 (酒寄訳、244頁)

至極当然のことながら、こちらでも負けていました。
残念至極。


名前
URL
削除用パスワード
by chronoir2023 | 2023-12-28 20:54 | 読書 | Comments(0)

日々の暮らしの中で感じたことや考えたことを書きます。


by chronoir
カレンダー