『デミアン』小ネタ その1


上田健次さんの小説『テッパン』に関連して、
数日前に書棚から引っぱり出したヘルマン・ヘッセの『デミアン』、
懐かしくて拾い読みしたら、
「えーっ」と思った箇所が二箇所ありました。
小ネタの類いで、どちらも全く記憶していませんでした。

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まず一つ目。
主人公シンクレールとデミアンが話をしている場面で、デミアンがこんなことを言います。

 たとえば、チョウ類の中のあるガに、雄より雌がずっと少ないのがある。 
 チョウ類は動物とおなじようにして繁殖する。つまり雄が雌をはらまし、
 雌が卵を産む。
 (『デミアン』高橋健二訳、1951年初版、1972年33版改版、1983年55刷、70頁)

う~む。「のがある」「はらまし」といった言い方が時代を感じさせますが、
それとは別に、最初の短いセンテンスの中だけで気になることが二つもあります。

一つ目は、チョウ(蝶)とガ(蛾)の問題です。

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日本では、あるいは日本語では、蝶と蛾は異なります。
虫全般や昆虫に別段詳しくない人でも、
モンシロチョウやアゲハを見て蛾だと思う人や、
夏の夜に街灯にたかっている蛾を見て蝶だと思う人はまずいないでしょう。

40年前にこれを読んだとき、私はここで引っかかりを覚えなかったのか。
全く記憶にないのですが、気にならなかったのだとすれば、ずいぶん迂闊なことでした。

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私はドイツ語の素養がないのですが、それでも、原文を確かめたくなりました。
原文全文が見られるサイトがあり、この部分はこうなっていました。
注目した部分を太字にします。

  Es gibt zum Beispiel bei den Schmetterlingen gewisse Nachtfalter,
 bei denen sind die Weibchen viel seltener als die Männchen. Die Falter
 pflanzen sich gerade so fort wie alle Tiere, der Mann befruchtet das Weibchen,
 das dann Eier legt.


JapanKnowledgeで<世界大百科事典>の「チョウ」を見ると、こうあります。
改行及び〔 〕内の補足は私が施したものです。

 〔蝶と蛾〕を区別しようとする傾向は国民性による思考の差で、
 英語には別々の単語があるが〔butterflyとmoth〕、
 ドイツ語やフランス語には共通の単語(ドイツ語はFalter、
 フランス語はpapillon)に〈昼の〉または〈夜の〉という形容詞が
 つくだけで固有の単語はない。

同じく<ポケットプログレッシブ独和辞典>に、
「Schmetterling」は、「チョウ, ガ;鱗翅(りんし)類」、
「Falter」は、「チョウ(蝶), ガ(蛾)」、
「Nachtfalter」は、「 ガ(蛾)」とあります。
なお、原文中の「Schmetterlingen 」は Schmetterling の複数形です。

訳文は、原文の通りに訳してあり、誤訳とは言えませんが、
一般読者の目には奇異に映るのではないでしょうか。
ドイツ語やフランス語の知識がある程度以上ある人は苦笑するだけかもしれませんが、
読者中の多数派ではないでしょうし、小説の訳文中の言い方としてはどうかと思います。

二つ目は、「チョウ類は動物と同じようにして繁殖する」。

これだと、「チョウ類(Falter)」は「動物(Tier)」ではないことになってしまいます。
JapanKnowledgeの<大辞泉>の「動物」を見ると、
一番目の意味としては
「生物を二大別したときに、植物に対する一群」云々とあり、
二番目の意味として
「人類以外の動物。特に、哺乳類をいう。獣類。」とあります。

日常会話での「動物」は多くの場合、確かに獣類の意味で使われるでしょう。

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ですから、上記の訳文は、「動物」は「獣類」の意味で、なおかつ、
「雄が雌をはらまし」のみにかかり、「雌が卵を産む」にはかからないと考えれば、
決して不合理ではありません。

しかし、多少の引っかかりは否定できません。

原文を見てみると……。 
上記の太字の通り、原文は「wie alle Tiere」です。
英語にすれば「like all animals」。
直訳すれば、「全ての動物と同じように」。

JapanKnowledgeの<ポケットプログレッシブ独和辞典>で
「Tier」(原文のTiereはこの複数形)は
「動物(人間は含まないことがある一方,昆虫・クモなどごく小さなものでも
Tier として意識される);(特に:)獣,けだもの,四足獣」とありますので、
獣類の意のつもりで「動物」と訳すことに問題はないように見えますが、
原文は「alle Tiere」ですから、少々気になります。
なお、獣は卵は産まないので気になりますが、
これは原文がそうなのですから仕方ないでしょう。

さて、最近の訳本ではどうなっているのか気になり、
図書館で2017年刊の光文社古典新訳文庫の『デーミアン』(酒寄進一訳)を借りてきました。

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同じ箇所を見てみると……。

  オスよりもはるかに、メスの個体数が少ない蛾がいるのを知っているかな?
 繁殖の仕方は他の動物とおなじだ。オスがメスに授精し、メスは卵を産みつける。
 (87頁、なお、高橋訳と異なり、出だし部分で改行されています)

まず、蝶と蛾の問題は、蝶への言及はせず、たんに「蛾」としています。
これでいいし、こちらの方がよいと私は思います。
蛾が蝶の一種として記述されていることが、
この小説中の重要事項ではないし、他箇所に関係してくるわけでもないですから、
言語の違いによって起こるこのようなことは、
こういう訳し方で十分で、原文通りに訳す必要はなく、
原文通り訳して注を付けるなどということも不要だと思います。
研究書ではなく、一般向けの翻訳小説なのですから。

二番目の問題はどうか。

「Tier」を獣類ではなくずっと広い範囲の動物と見なし、
「alle Tiere」の「alle」の意を汲んで、「他の動物」と訳しています。
「蛾(Falter)」もその「動物(Tier)」の一員ということになります。
植物に対する動物全てが授精するかとなるとそうは言えないので、
この訳は、その辺の問題を回避し、文脈上の不自然さもなく、
原文に近似の語にしており、少なくとも私には納得できるものです。

「メスは卵を産みつける」にもかかってしまうのは、高橋訳と同じですが、
まあ、これは仕方ないでしょう、やりようがないわけではないと思いますが、
原文通りということで。

なお、最初の一文は、原文では疑問文ではないですが、文脈上違和感はなく、
読みやすくなっているので、これはこれでいいと思います。

この酒寄訳、ぱらっと頁をめくって見ただけの段階で
ずいぶん読みやすいように感じられていました。
親しみやすい文章になっているし、字も大きめで、改行も高橋訳より多い。
その印象は、上に引いた訳文を読むことで、確かなものに思えてきました。

この訳なら、再読できそうですが、どうするか今決めかねているところです。
他に読みたい本がいくつもあるので、悩みどころです。

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なお、小ネタはもう一つあり、これこそ本当に小ネタなのですが、
長くなりましたので、それについては近日中に書こうと思います。


Commented by aki at 2023-12-26 01:04
この様な書込大変失礼致します。日本も当事国となる台湾有事を前に 日本の国防を妨げる国内の反日の危険性が共有される事を願い書込ませて頂きます。

今や報道は無法国の代弁者となり、日本の国益は悪に印象操作し妨害、反日帰化の多い野党や中韓の悪事は報じない自由で日本人の知る権利を阻む異常な状態です。

世論誘導が生んだ民主党政権、中韓を利す為の超円高誘導で日本企業や経済は衰退する中、技術を韓国に渡さぬJAXAを恫喝し予算削減、3万もの機密漏洩など数知れぬ韓国への利益誘導の為に働きました。

メディアに踊らされあの反日政権を生み、当時の売国法や“身を切る改革”に未だ後遺症を残している事、今も隣国上げや文化破壊等、

日本弱体と利益誘導に励む勢力に二度と国を売らぬ様、各党の方向性を見極め、改憲始め国の成長と強化が重要で、しかし必要なのは、
日本人として誇りを取り戻し、世界一長く続く自国を守る意識だと多くの方に伝わる事を願います。
Commented by chronoir2023 at 2023-12-26 08:48
aki様、憂国のコメント、拝読しました。

二十数年前まで私は雑誌『諸君』『正論』の愛読者でした。
政治活動に参加したことはありませんが、国を憂えていました。
会社の同僚や先輩たちの無関心や左翼的な言動に呆れ果てていました。
当時の私なら、aki様のおっしゃることに共感を覚えたかも知れません。
しかし、今は共感できません。
今も国を憂えていますが、当時の憂え方とは違います。
もっと、ずっと、どうしようもなく絶望的に憂えています。
そもそも台湾有事がどうのこうのと言ってきたのはメディアではないですか。
中韓はだめだが、米国民主党系は信頼できるなどとは全く思いません。
中国も韓国も米国も英国もEUもロシアも友好国にしてなおかつ仮想敵国とみなして
国を運営していくのがまともな国というものだと考えます。
日本の不幸は、米国を仮想敵国として扱えないことだとも言えます。
反日勢力が跋扈していることは間違いないでしょう。
しかし、自民党が反日勢力の統一教会とつるんできたように、
反日を糾弾するものが実は一番の反日ということが十分にあり得ます。
わたしたち一般国民は、特定の勢力の煽りにのせられないよう警戒しなければならない、
akiさんのコメントを拝読して、あらためてそう思いました。
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by chronoir2023 | 2023-12-25 20:23 | 読書 | Comments(2)

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