徂徠とラスコーリニコフ


メディアで「性善説」とか「性悪説」という言葉を見たり聞いたりすることがあります。
そのたびに、学生の頃に読んだ荻生徂徠の「弁道」の中の言葉を思い出します。

 いやしくも道に志あらんか、性善を聞けばすなはちますます勧(つと)め、
 性悪を聞けばすなはち矯(た)めんことを力(つと)む。
 いやしくも道に志なからんか、性悪を聞けばすなはち棄ててなさず、
 性善を聞けばすなはち恃(たの)みてなさず。
 (『日本思想大系36 荻生徂徠』岩波書店、1973年、23頁)

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はじめて読んだとき、衝撃を受けました。
その当時も、きわめて当たり前のことを言っているだけと分かりはしたのです。
しかし、そうであってもなお、衝撃は消えませんでした。
むしろ、きわめて当たり前のことを言っているからこそ、驚きました。
当時の私は、その時、思考の名に値する思考に触れた思ったのです。

漢文の書き下しで多少わかりにくいので、
説明を加えた形で現代語にすれば、
こんな感じになるででしょう。

 かりに向上しよう、今よりましな者になろうという気持があるなら、
 人は生まれながらに善であると聞けば、自分は善き者なのだから、
 もっと頑張ってよりましな者になろうと思いなしてますます励むだろうし、
 人は生まれながらに悪であると聞けば、その悪を何とかしよう努めるだろう。
 だが、もし、向上しよう、今よりましな者になろうという気などないなら、
 人は生まれながらに悪であると聞けば、どうせ自分は悪なのだからと努力を放棄し、
 人は生まれながらに善であると聞けば、自分はこのままで善なのだから努力は不要と、
 自堕落を決め込むだろう。

人がある物事について、AかBかと議論しているときに、
どちらが正しいかという次元とは別次元から物事を見、
どちらが正しいかについての答えを出すのではなく、
問題そのものを無意味化してしまう。
徂徠がやったのはそれです。

見方によっては、ドストエフスキーの『罪と罰』で、
ラスコーリニコフがはまり込んだ<非凡人には人を殺ことが許されるか否か>の問題が、
解決されるのではなく、霧散してしまうのに似ています。

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違うのは、ラスコーリニコフの問題は、
とりあえず、そして、彼にとっては霧散してしまったにすぎない可能性がありますが、
性善性悪、どちらが正しいか問題は、徂徠の一言で、保留なしに霧散したと思われること、
そして、ラスコーリニコフの場合は、徂徠のように意図的にやったのではなく、
何とも運のよいことに、心清き娼婦が寄り添ってくれたおかげで、いつの間にかそうなったということ。

今も性善か性悪などということを言う人がいますが、
こし餡と粒餡はどちらがうまいか、どちらが本来の餡かを問題にするようなもので、
切実なるものであるわけではなく、あれこれ言って楽しんでいるだけでしょう。
それはそれで、別に悪いことではありません。
思考もどきを弄ぶのは楽しい。私も好きです。
それに、それが思考を呼び込むこともあります。

すみません、あまり適当な比喩でないような気がしてきましたが、
あんこが好きなもので、ご海容ください。
因みに、こし餡も粒餡も好きですが、どちらかと言えば、粒餡の方が好きです。

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それはさておき、人とは誰であれ死ぬまで、何かになりつつある何か、だと思います。
思考が現実を作り、現実が思考を思考をたらしめる。
問題は、思考もどきと思考が紛らわしいということ。

思考が現に働いているとき、そこに思考はありますが、
働いていないとき、そこに思考はありません。
なぜそんなあまりにも当たり前のことをわざわざ言うかというと、
その当たり前のことを私自身が忘れてしまうからです。

困ったことに、そのことを今日久しぶりに思い出しました。
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あ~あ。
次に思い出すのはいつになることやら……。


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by chronoir2023 | 2023-11-09 19:29 | 読書 | Comments(0)

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