『言い訳するブッダ』その3

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4週間ほど前に『言い訳するブッダ』についての2回目を書きましたが、
今回はその続き、3回目です。
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今回は、浄土宗に関する記述で気になることについて書きます。
なお、著者は、大学の先生ですが、浄土宗の僧侶でもあるとのことです。

中国における浄土教の大成者は、善導です。
法然は、「その教学を全面的に中国唐代の善導に依拠」(188頁)して
浄土宗を開きました。

しかし、双方の教学には違いがあると著者は言います。
  
 善導の念仏は「本願念仏」、法然の念仏は「”選択(せんちゃく)”本願念仏で、
 まったく同じではありません。(188頁)

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ニシツノメドリとエトピリカ
似ていますが、違う鳥です。


このあと著者は、それぞれの「~念仏」について説明します。

  善導の本願念仏は「阿弥陀仏の本願で約束された念仏を実践すれば、
 必ず往生できる」ことを意味します。これはその他の方法でも往生できること
 を必ずしも否定していません。しかし、法然の選択本願念仏は「阿弥陀仏
 は本願念仏を往生のための唯一の行として選択されたのであるから、念仏
 でしか往生できない」ことを意味します。(189頁、太字は私がそうしました)

たいへんわかりやすく、素人の私にもすっと頭に入ります。
双方の違いがよく分かります。
といったんは思ったのですが、見返したら、ひっかかりが生じました。

善導の「念仏を実践すれば、必ず往生できる」は、
念仏が往生の十分条件であることは言っていますが、
必要条件であることは言っていません。
一方、法然の「念仏でしか往生できない」は、
念仏が往生の必要条件であることは言っていますが、
十分条件であることは言っていません。

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つまり、「念仏を実践すれば、必ず往生できる」は、
著者が言うとおりで、
他の方法で往生できる余地を排除していません。
一方、「念仏でしか往生できない」は、
往生には念仏が必須だと言っていますが、
念仏を称えれば必ず往生できるとは言っていないのです。
著者の言う両者の違いがこのようなことなら、それでいいのです。
ですが、果たしてそうなのでしょうか……。
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 法然



著者はさらにこう言います。

 つまり、これ〔法然の選択本願念仏〕は他の方法での往生を基本的に認めません。
 「念仏すれば往生できる」 と「念仏しなければ往生できない」 には、大きな
 違いがあるのです。(同上)

「念仏でしか往生できない」が「念仏しなければ往生できない」に変わっても
事情は変わりません。
いや、困ったことに、後者は前者とは文意が異なります。
後者は、念仏以外も必要であるようにとれる余地がありますので。
しかし、それは著者の意図ではないでしょう。
文脈上、著者が前者=後者と考えていることは明らかです。
なので、「念仏しなければ往生できない」は見なかったことにします。

なお、「基本的に」は両義的で気になります。
削除か差替が望ましいと思います。

結局のところ、著者は、法然の選択本願念仏を何だと言いたかったのでしょうか。

1)念仏を称えるだけで必ず往生できる。念仏以外では往生は不可能である。
2)念仏を称えるだけで往生できる可能性がある。念仏以外では往生は不可能である。

この1と2のどちらなのでしょうか。
この本の記述からは、1にはとれません。
とすれば、2でよいのでしょうか?
浄土宗の教義に通じていない私としては、
どちらかに決めてしまうことができません。

興味深い内容満載の本であるだけに、残念です。

この本については、書きたいことがまだあるのですが、
今回はここまでにします。

一応、リンクを貼っておきます。


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by chronoir2023 | 2023-11-06 19:30 | 読書 | Comments(0)

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