私は羊飼いの導く羊になりたくない


平地を通っていくスーパーに向かう途上に
キリスト教会があります。
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その掲示板に、短い言葉が示されています。
いつもは素通りするのですが、先日たまたま読んだら、
こうありました。


羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。


嫌悪と怒りと恐怖で体が強ばるのを感じました。

どんな文脈の言葉かということに思いが及ぶ前、
脊髄反射のごとき一瞬の反応です。
文脈など関係なく、私の体は私の目からの情報に瞬時に反応したのです。

我に返って、キリスト教会の玄関先に掲げてるのだから
聖書の言葉のはずだと思い、よく見ると、
「ヨハネによる福音書10章16節」とちゃんと書いてありました。

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「一人の羊飼い」はイエス・キリスト、
「一つの群れ」になる「羊」たちは、この世の全ての人びと、
ということになるのでしょうか。

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推測できるのはそれだけで、
どういう文脈での言葉かは思い出せないし、分からなかったのですが、
不意に目に飛び込んだその文言は、はなはだおぞましい言葉に見えたのです。
それは、カルト、独裁国家、世界統一政府の類いを連想させました。
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聖書には、キリスト教徒ではない私にも、
参考になる文言が少なからずあります。
しかし、上記の文言は、多少気を落ち着かせてもなお、
私の胸のざわつかせ続けます。

引用元の文脈で見れば、印象は変わるのだろうと、
帰宅後に前後の文章とともにあらためて読んでみました。
ずいぶん昔に新約聖書を通読したことはあるのですが、
内容はほとんど覚えていないのです。

この箇所の少し前で、イエスは目の見えない人の目を癒やし、
見えるようにしています。

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癒やされた人がファリサイ派の人びとのところに連れて行かれるのですが、
かれらはユダヤ教の律法を厳格に守ることを旨とする人びとですから、
イエスがそれを行ったのが安息日だったことを問題視し、
イエスを「罪のある人間」と見なします。

癒やされた人は、その「罪のある人間」を「預言者」だと思うと言い、
さらに、神のもとから来た人であるかのように言うので、
ファリサイ派の怒りを買い、その場から追い出されます。

ことの成り行き知ったイエスは、居合わせたファリサイ派の人びとに向かって
「良い羊飼い」について語ります。

 わたしは良い羊飼いである。 良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、
 羊を置き去りにして逃げる。―狼は羊を奪い、また追い散らす。―
 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。〔中略〕
 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。 その羊を
 導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こう
 して、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
 (「ヨハネによる福音書」110章11~16節、新共同訳)

全ての羊、つまり全ての人が、
一人の良い羊飼い、つまりイエスに導かれ、一つの群れになる、
ファリサイ派の方々は、良い羊飼いではないので
羊の群れを導くことはできない、
というわけです。
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確かにこの文脈で、イエスの側に立って読めば、
厭な話ではありません。いい話だと言っていい。

でも、「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」の一文が
あまりにも強烈で、胸のざわつきが消えません。

ざわつきを多少は抑えるべく、
「カルト、独裁国家、世界統一政府の類い」を頭から追い出し、
イエスのことを思い浮かべてみようとしたのですが、
思い浮かんだのは、イエスではなく、
『カラマゾフの兄弟』の大審問官でした。
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大審問官は、反イエスですが、「一生涯、人類を愛する念にかわりはなかった」
(『カラマゾフの兄弟(二)』ドストエフスキー、原久一郎訳、新潮文庫、1961年、241頁)人物です。
「人類を愛する念にかわりはなかった」がゆえに反イエスになった、とも言えるでしょう。
この人物なら、自分を「良い羊飼い」と呼びかねない。
二重におぞましい。

聖書のこの一文は、キリスト教徒にとっては、素晴らしい言葉で、
胸に快く響く言葉なのでしょうか。
きっとそうなのでしょう。

しかし、非キリスト教徒の私には、羊飼いと羊の比喩が強烈すぎて、
前後の文脈を見た後でもなお、快く響くことはありません。

私は羊飼いの導く羊になりたくありません。
そしてまた、その羊飼いが良い羊飼いであろうとなかろうと、
その人がこの世の全ての人びとを一つの群れとして扱い、
その群れを導くことを望みません。
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どうしてもそう思ってしまいます。



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by chronoir2023 | 2023-10-23 19:46 | 言葉 | Comments(0)

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