『言い訳するブッダ』その2
2023年 10月 10日
一週間前に『言い訳するブッダ』について書きましたが、
今回はその続きです。
この本、知らなかったことがたくさん書いてあり、
その意味でたいへん面白く読んだのですが、
前回書いたジョークや言葉の誤用の類い以外に、
気になることや気になる箇所がいくつかありました。
今回は、そのうちジョークなどより本質的なことについて書こうと思います。
本質的なことで気になること、その第一はタイトルです。
例えば、ブッダは<目覚めた人>なので眠らない、
眠らないのだから夢を見ない、
なのに、仏典にはブッダが見た夢の話が出てくる、
とのことなのですが、
さて、それについての「言い訳」はどうなっているでしょうか。
仏典にブッダの見た夢の話が出てくる時は、ブッダがこんなふうに言うのだそうです。
「弟子たちよ、如来・阿羅漢・正等覚者(ブッダ自身のこと)が正しく目覚める前、
まだ目覚めていない菩薩であったときに、五つの偉大な夢を見た」(21頁)
悟りを開いてブッダになってからは夢を見ないが、
悟りに達する前、つまり菩薩であった段階では夢を見た、というわけです。
これは仏典内でブッダの発言として示されているので、
ブッダが「言い訳」をしていると言えなくはないでしょう。
しかし、この本の中で語られている「言い訳」の殆どは、
上記の例とは異なり、<ブッダが「言い訳」をした>という形をとっていません。
当初は悟りを開いたブッダの姿は表現を超越しているから像にすることは憚られたが、
悟る前の菩薩なら像にしてもいいということにした(35頁)とか、
ブッダは全知なのに、人にものを尋ねることがあるのはヘンだが、
<知っているが、わざと尋ねている>ということにした(44頁)とか、
次々に示される「言い訳」の大半は、ブッダがした「言い訳」ではなく、
仏典あるいは仏教がしている「言い訳」です。
それにもかかわらず、「言い訳するブッダ」としてしまうのは、
ブッダに濡れ衣を着せることにならないでしょうか?
私は仏教徒ではありません。
若い頃から主に読書を通して宗教一般に興味を持っていますが、
特定の信仰を持っていません。
因みに、親の家が神道だったので、冠婚葬祭は神道で行い、
家に神棚があるので、毎朝お茶を供えて礼とパチパチをしているだけの不信心者です。
そういう私でも、ブッダに敬意を抱いてはいます。
そういう者の一人として、このことは気になります。
このあとこのこと以外のことを書くと、長くなりそうなので、
それはまた近いうちにということにして、今回はここまでにします。
by chronoir2023
| 2023-10-10 19:16
| 読書
|
Comments(0)



