『罪と罰』弁証と生活/問題の解決と問題の解消


 彼はただ感じたばかりである。 弁証の代りに生活が到来したのだ。
 従って意識の中にも、何か全く別なものが形成さるべきはずである。
 (『罪と罰』下巻、米川正夫訳、新潮文庫、1951年[1971年38刷]、457頁)

ドストエフスキーの『罪と罰』の最後に近いところに出てくる文章です。

中学生の頃から何度も繰り返し読んだ小説ですが、
久しぶりに本棚から引っ張り出してぱらぱらめくっていたら、
この箇所が目にとまりました。

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何度見ても、そして、今見ても、痛切に胸に響きます。

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実は、2010年以降は、新しく買った岩波文庫の江川卓訳で読んでいました。

 彼はただ感じただけだった。 思弁の代わりに生活が登場したのだ。
 意識のなかでも、まったく別の何かが作りあげられなければならない
 はずだった。
 (『罪と罰(下)』江川卓訳、岩波文庫、2000年[2010年15刷]、402-403頁)

どちらの訳がドストエフスキーの原文のニュアンスに近いのか
私にはわかりません。
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江川訳の方に鞍替えしたのは、そちらのほうが訳が「正確だ」
という評価をどこかで目にしたことと、
手持ちの新潮文庫がくたびれてきたからだったのですが、
少なくともこの箇所は、かつて何度も読んだということもあって、
やはり米川訳の方が胸にしみます。

ラスコーリニコフは、今で言えば引きこもりに近い生活を送っていて、頭がおかしくなります。
孤立が人をおかしくしてしまう様子が実にうまく書かれています。
孤立したからおかしくなるのか、おかしいから孤立してしまうのか、
鶏が先か卵が先か問題の一例だと思います。

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孤立のあげく、彼はますます頭でっかちになり、
・世の中には凡人と非凡人がいる。
・凡人には許されないことが、非凡人には許される。
・世の中に害をなすだけの人間を殺してその金を奪い、世の中のために使うべきである。  
・非凡人にはそれが許される。
・自分はそれを実行することで非凡人であることを自分に証明してみせるべきである。
・そう考え、その考えが正しいと思うならば、実行しなければならない。
と考えます。

そして、殺人を実行します。
ターゲットは金貸しの老女でしたが、行きがかりでその義妹である好人物も殺してしまいます。
ひどい話です。極悪です。

しかも、彼は小説の最後の最後まで自分が悪いことをしたとは思っていません。

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彼が自分の罪として認めたのは、持ちこたえられないで自首したというそのことだけです。
ナポレオンに匹敵するような非凡人であれば持ちこたえられたでしょうが、彼は持ちこたえられなかった。
それが罪なのであって、二人を殺したこと自体が罪ではないのです。

なお、文脈上「ナポレオンに匹敵するような非凡人」と私は書いてしまいましたが、
ナポレオンなら、自分が非凡人であることを証明するためのこんな実験などするわけがないし、
こんな実験を考えたり、実行したりしたで時点で、もう「非凡人」であるわけがない。
ただのおかしな、困った凡人でしかないでしょう。

いずれにせよ、最後の最後になって、
彼は心優しき娼婦ソーニャの足もとに体を投げ出し、その膝を抱きしめます。
「愛が彼らを復活させた」(米川訳下巻456頁)というわけです。

 彼はただ感じたばかりである。弁証の代わりに生活が到来したのだ。
 従って意識の中にも、何か全く別のものが形成さるべきはずである。
 (同上457頁)

私自身、若い頃は、孤立傾向、引きこもり傾向のある人間でした。
それだけに、その頃、この小説は胸に響きました。
殺人もその他の重罪も犯したことはないのですが、
ソーニャなしで「更生」しなければならないと思うようになりました。
ちなみに、そのおかげもあったのか、いつのまにか「更生」していました。
少なくとも、自分ではそう感じています。
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「更生」してからは、当時よりも冷静にこの小説を眺めるようになり、
「愛が彼らを復活させたのである」だなんて、二人も殺しておいていい気なものだ、
と思うこともありますが、「弁証の代わりに生活が到来したのだ」を目にすると、
今でも痛切に胸に響き、「更生」前に戻ってはいけないという気持を新たにします。

さて、ここからが本題です。

ラスコーリニコフが抱いた凡人・非凡人問題は解決されていません。
ラスコーリニコフは結局「持ちこたえられないで自首」(米川訳下巻448頁)しましたが、
殺した老女から奪った金を世の中のために使うことができていたらどうだったのか。
そもそも凡人には許されないことが非凡人には許されるのか。

その問題が問題とするに値するかどうかはともかく、それは問題のまま残っています。
ただしそれは、斜めから解決されました。
弁証の代わりに生活が到来することによって
ラスコーリニコフにとってその問題は霧散してしまったのですから。
少なくとも、とりあえずは……。

会社員になって数年後、社長から「君は音楽をやっていたんだろう? 
若い社員を集めてその種のクラブでもつくってくれないかね。
そうすれば、どうでもいいことを組合でいちいち騒ぐこともなくなるんじゃないかね」
と言われたことがあります。

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そんな不用意なことを組合員である二十代の平社員によく言うよ、ナメてんじゃねえよ、
と呆れましたし(ユニオンショップでしたから、係長以下は全員組合員です。
昔は赤旗を振って騒いだこともあったようですが、当時はもう弱い弱い組合でした)、
そんなクラブなどつくりませんが、「なるほど」とは思いました。
頭の中には『罪と罰』のことが思い浮かんでいたのです。

会社に対する不満があったとしても、社内のクラブ活動が楽しくなれば、
多少の不満問題は消えてしまうというわけです。
今はそういうことを言う人はいなくなったでしょうが、
細かいことに拘って文句ばかり言う女性社員のことを、
「男ができれば大人しくなるだろう」などと言う男性社員は普通にいました。
それに近い話です。

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問題そのものの解決をめざすのではなく、問題を見えなくしてしまえ、
問題を問題としなくなれば、問題そのものが消えてしまう、というわけです。
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いろいろなことに通じる話だと思います。
3S(さんエス)政策さえ思い起こされます。

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by chronoir2023 | 2023-09-14 19:04 | 読書 | Comments(0)

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