梵天勧請のエピソードは何のため?
2023年 08月 06日
私は仏教徒ではないのですが、仏教に、あるいは仏教にも、
中途半端な興味がありまして……。
先日、『ブッダたちの仏教』(並川孝儀、ちくま新書、2017年)を読んでいたら、
梵天勧請について、こう書かれていました。
「この伝説」とは、梵天勧請の伝説のことです。
この伝説によれば、ゴータマ・ブッダが悟った後に、
説法すると真理は理解されなかったり誤解されたり
するのではないかと考え説法をためらったが、梵天
が真理を理解する人もいると説法を要請したという。
ゴータマ・ブッダが説法を逡巡したとされるのも、
人々に悟りの境地を伝えることの困難さを自覚して
いたことを窺わせる。ゴータマ・ブッダは、言葉へ
と変換すれば、真理は伝え切れるものではないと知
っていたからであろう。つまり、この伝説は、真理
が世俗化することへの葛藤でもあった。
(152頁)
やっと見つけた、そう思いました。
二十代のころ、仏教関係の本でブッダの成道前後の記述を読んでいて、
梵天勧請の箇所に来たとき、なるほど、と一人で勝手に納得したのです。
悟りの内容を言葉で伝えるのは至難、
しかし、伝えられる可能性がゼロと決まったものではない、
とにかくやってみよう。
ただし、誤って理解され、結果的に人々に害をなす恐れがあることを
覚悟しておかなければならないし、
教える相手、そして教えを引き継ぐ者たちに警告しておかなければならない。
その旨を伝える実に優れたエピソードだと思われたのです。
しかも、その問題は、ブッダの悟りについて特にあてはまることではあるにしても、
いろいろなことにあてはめうる、一般性のある問題であり、
さらに、仏教のその後の展開を思えば、その重要さは非常なものだと思われました。
ところが、その後仏教関係の本をいくつか読んでも、
私が抱いた印象に近い記述に出会うことはありませんでした。
仏教関係の本と言っても、こちらは興味本位の素人ですから、
すべて入門書や概説書の類、あるいは、せいぜい仏教史の本です。
たとえば、その頃読んだある本にこうありました。
右の一連の物語〔梵天勧請のエピソードのこと〕にお
いては必ずしも説法の躊躇ということが主題ではない。
もしそうならば、説法に踏み切らせた者は梵天でなく
ても、他の人でもよいはずである。ところが梵天が説
法に踏み切らせたということは、当時最高の神が勧め
たということによって説法開始を権威づけたのであろ
う。
(中村元『ゴータマ・ブッダ』-釈尊の生涯- 原始仏教Ⅰ』218頁、
下線部は引用元では傍点付)
つまらないと思いました。
<躊躇が主題なら、説得するのは最高の神である必要はない>
という考えに説得力があるとは思えませんでした。
<最高の神が説得しなければにならないほど、ブッダの躊躇は大きかった>
と考える方が、はるかに説得力があると思いました。
また、別の本には、こうありました。
仏陀は悟りを開いたあと、深い寂静に沈んだという。
〔中略〕自分の悟った「法」(dhamma 真理)は深淵で
あるから、他に説いても理解されないであろうと考え、
教えを説かないという心に傾いたという。これは「大
事」を達成したあとの心の空虚を示すものであろう。
人生の最高の目的を達成すれば、それ以上生存する意
味は見出しがたいからである。しかし釈尊は、「自利」
の大事達成後の虚無の深淵から立ち直って、衆生済度
の「利他」の活動に心を向け直した。
(『インド仏教史 上巻』平川彰、春秋社、1974年、43~44頁)
期待を裏切られた気がしました。
「他に説いても理解されないであろうと考え、教えを説かないという心に傾いた」
だけで十分ではないのか。
しかし、引いた文章の少し後に、
「『梵天勧請」に深い宗教的意味を認める学者もある」とあり、
書名と該当頁が示されていました。
これは期待できそう。
興味津々、大学の生協に注文して購入して読みました。
当時のインド精神の代表者であるそういう宇宙創造神
としての梵天が仏陀に対して説法を勧請したというこ
とは、仏陀が説法せねばらならないということが、歴
史的には、インド精神史上の要請であったということ
であり、その時の仏陀彼自身にとっては、全人類の要
請として強く自覚せられていたという内面的事実であ
る他はない。
(『仏教思想入門』山田益、理想社、1968年、133頁)
私には空疎な語の連なりにしか見えず、そこに「深い宗教的意味」はおろか、
思想も思考もあるようには思えませんでした。
私の勝手な期待は再び裏切られました。
それから数十年後の今、やっと当時の私の印象に近いことを述べている本に出会ったのです。
文章としては引っかかる箇所がありますが、内容は納得できます。
もしかしたら、こんなことに驚くのは、仏教徒でもないド素人の私ならではのことで、
並川さんが述べておられることは、あるいは私が考えたことも、
仏教(ではなく、仏教学?)の世界では極めて常識的なことなのかもしれません。
そもそも、<誤解される恐れがあることをブッダは最初から自覚していた>ということは、
梵天勧請のエピソードそのものが明らかにしているのですから。
しかし、そうであったとしても、私は、嬉しい驚きを味わいました。




